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国語関連

大村はま
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「教えることの復権」というタイトルが示すとおり、「教える」ことをせずに「学び」を押し付けることが蔓延している教育に警鐘をならしている。「話し合いましょう」や「考えてみましょう」というキーワードが重要視され、なにも教えずに考えさせたり、話し合いをさせても意味がない。教育において大事なのは、どうやって頭を働かせるかという方法をちゃんと教えることであろう。複数の頭の使い方を学べば、どういう事柄にどういう風に取り組めばよいのかが分かり、自らの取り組みを客観的に見ることが可能になる。こういう訓練なしに、「考えること」や「話し合うこと」ができたとしても、それはとても幼稚なものになりかねない。

英語教育では、教員はfacilitatorであるべきという考え方がある。学生中心の授業において、教師の役割を論じる場合に良く聞くことだが、こちらもひとつ間違えば、生徒に好き勝手やらせておいて何も教えないと言うことになりかねない。特に、学生に英語でディベートをやらせようとか、英語で発表をさせようと言う授業において、教員はディベートや発表後の質疑応答をスムーズに進めるためのfacilitatorになることが求められる。しかし、このような教師の役割はディベートがそれなりに進んでいること、そして、発表がきちっとできると言う前提での役割であろう。その前段階で、ちゃんとディベートや発表ののやり方を時間を掛けて教えることが絶対の前提条件となる。ディベートや発表はあくまでも学習の成果であって、学習なしには成り立たないものだろう。それらの学習なしのディベートや発表(特に質疑応答)はせいぜい小学校の学級会レベル程度にしかならない。

「教えること」は教育の当然のあるべき姿だが、この書のタイトルが示すとおり、復権させなければならない対象になってしまった。詰め込み教育からゆとり教育へ振れた振り子を少し振り戻して、より良いバランスの「教えること」(教育)を考え無ければならない。